湯島聖堂のはじめ もと上野忍ケ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内にあった孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)五代将軍綱吉が湯島に移したことによります。
先聖殿を大成殿と改称し規模を拡大・整頓し、官学の府としたのがはじまりです。これより大成殿と付属の建物を総称して「聖堂」とよぶようになりました。
それから百年後、寛政9年(1797)林家の管理下からはなれ官立の「昌平坂学問所(昌平こう)」が設置されました。官立の学問所のはじまりです。
寛政11年(1799)松平定信の「寛政の改革」で学制を改革し、朱子学を正学とし振興する政策により聖堂の規模拡張改築がありました。
このときの設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸の徳川光圀(水戸黄門様)のために製作した孔子廟の模型を参考に作られたそうです。
大成殿を中心に「庁堂・学舎」「学寮」「文庫」「教官宿舎」などの設備を備え、直参・旗本の子弟の教育を目的とし「寄宿寮」を設け48人を収容したそうです。
のちに「書生寮」を設けて陪臣(藩士・郷士)・浪人などの入学もゆるされ公的施設としての学問所として成立したようです。
学科は漢籍(朱子学)の素読、講義、講釈、学生間の輪講でした。
試験は三年に一度、十五歳以上(元服後、つまり大人)の旗本・御家人を対象とした「学問吟味」、十五歳未満(元服前)には毎年「素読吟味」があったそうです。
その他、武士庶民の差別無く、自由に聴講を許す講義(仰高門日講)などもあったようです。
現在の国立大学の科目、試験からみたら、江戸時代の学生は何とも気楽そうに見えるのは私だけ?
そのうえ女子は対象外!
明治元年(1868)徳川幕府崩壊に伴い聖堂は新政府によって接収され、学問所を昌平学校とし、大学校・医学校を設立(日本ではじめて)。
明治4年(1871)大学を廃止、大成殿を陳列場とし、博物館とする。文部省を創設。
明治5年(1872)博覧会を開催、書籍館を開設、はじめての図書館となる。師範学校開設。地方官会議場となる。文部省、常盤橋に移転。
明治6年(1873)師範学校付属小学校授業開始。初の師範付属。
明治7年(1874)女子師範学校設立。
明治9年(1876)東京女子師範学校に幼稚園を開設、
国内初の幼稚園となる。
明治15年(1882)博物館が上野に移る。
明治18年(1885)図書館が上野に移る。
明治40年(1907)維新後初の孔子祭を行う。
大正11年(1922)国法により湯島聖堂が史蹟に指定される。
大正12年(1923)関東大震災のため全焼。入徳門、水屋だけが災を免れた。
昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造りで再建。斯文会より国に献納。
昭和20年(1945)東京大空襲により被爆、水屋全壊、練塀の一部が崩れた。